深夜の真剣文字書き60分一本勝負 お題:「冷たい方程式」「割れたガラスの上」
物言わぬ恋の獣

2016.07.01


 彼はソファに体を預け、淀みないペースで文庫本のページをめくっていた。
 何を読んでいるのかは知らないが、集中できていないのは明白だ。没頭しているときほど、一つのページに長く留まったり、ページをめくる手が逸ったりする。
 今はこれ以上近づいてはいけないと、頭の中で警告音が鳴った気がした。しかし、習慣づいた体は急には止まらない。自分の靴音がやけに大きく聞こえた。
 踏み出した足が床板を軋ませる音を、彼の耳は的確に捕らえたらしい。文庫本に向いていた彼の目がすうっと細められた。眠っていた肉食獣が身じろぎしたときのような緊張感が走る。
 彼は栞も挟まず本を閉じ、こちらを向いた。声はない。しかし、その瞳は雄弁だった。強い視線が、近くに来いと私を手招きする。
 それに逆らう気はなかった。ここから逃れたところで、私が行ける場所なんてどこにもないのだから。そして、彼もそのことを十分に理解した上で振舞っている。
「怯えるな」
 たった一言、命令のような言葉が落とされ、それと同時に彼は私の反論を奪った。否定も肯定も許されず、唇を介して伝わるのは互いの熱のみ。身を捩っても、彼は距離を詰めてくる。横暴だった。どうしようもなく。
 嫌味のつもりで、いつか聞いてみたことがある。
 どうすれば、自分の行動に自信を持てるのか、躊躇いを無くせるのかと。
 彼の答えは要領を得ず、ただそう在るのだと告げた。その答えは満足なものではなかったけれど、納得は出来た。私と彼は、生き物としての格が違うのだ。
 彼ならきっと、割れたガラスの上だって、裸足で躊躇いなく進むのだろう。私はこんな、ただの教室でも、一歩踏み出すのに勇気が必要なのに。

 在り方からかけ離れている私と彼が、放課後の時間を共有するようになり、もう二年が立つ。
 私と彼の関係を方程式で表したとしても、きっと他人に説明できるような解は得られまい。放課後の空き教室で静寂を共有する相手。ときには体の熱も分け合う相手。
 理論上は存在するこの関係を、彼ならなんと名付けるのだろう。

 感情が付随しないのならば、断ち切ってしまいたい。そう告げた時、彼は何も言わなかった。理由も聞かなかった。その代わり、私の体を放そうとはしなかった。
 それからも、空き教室へ通う日々は続いている。
 温度のない関係に終止符を打つことは、未だ許されていない。



言葉足らずは誤解の元ですが、彼は改めない。
Copyright ©2016 Maki Tosaoca