深夜の真剣物書き120分一本勝負  お題:「言い得て妙」
犬猿の獄中劇

2016.06.11


 諜報員の仕事はいつも危険と隣り合わせ。綱渡りが常だ。
 正体が暴かれれば最後。潜入を許した組織も逃走までは許さない。捕らえられた諜報員は、ありとあらゆる手段で情報を引き出され、出来る限り無惨な方法で処刑される。
 そして今、正体をばらされて逃走にも失敗した私は、下着同然の姿で床に転がされていた。武装解除は勿論のこと、ジャケットやパンツの裾に仕込んでいたあれこれも奪い取られ、両手は後ろ手で手錠に繋がれている。
 私が押し込められたのは窓のない小部屋だ。出口は一つで、監視カメラがひとつ。出口は施錠されている。見張りの人員こそいないが、この場を切り抜ける方法はまだ思いつかない。
 一つのミスすら許されないことは充分に分かっていた。
 ただ、私にとって誤算だったのは、組織には既に別の諜報員が潜入していたこと。その諜報員と鉢合わせるのは、今回が初めてではなかった。互いの本名も正式な所属も知らないが、諜報活動を目的とする工作員だとは知っている。
 嫌な予感はしたのだ。『彼』の口が、いつも以上に嘘くさい笑みを形作ったときから。
「この人、スパイです」


 彼が私の元へ来たのは、私が拘束されてから二、三時間経った頃だった。
「あら、何の用かしら? ワンちゃん、迷子?」
 そう声をかけると、彼は明らかに気分を害したようだった。眉間に皺を寄せてこちらへ近づく。私のすぐ前で立ち止まり、こちらを見下ろしてきた。
「犬、ねえ……鎖に繋がれているのはそちらでしょう? 随分といい格好じゃないですか」
 それを聞いて私は、こちらが下着姿であることを思い出した。彼の視線に下卑たものは混じっていないが、羞恥を感じないわけではない。しかし、この程度の揺さぶりで動揺を見せるのは得策ではないだろう。
「大体、俺が犬ならあなたは? 猿ですかね」
「うまく言ったつもり? イマイチよ」
 大体、犬猿の仲というにも生ぬるい。今は完全に敵同士だ。
「誰かさんのおかげでね。退屈していたのよ。暇過ぎて、そろそろ口が滑りそうだわ。例えば、何食わぬ顔で潜入しているスパイがいることとか」
彼は肩を竦めて、彼はカメラに背を向けたまま、振り返りもせずに言う。
「そのカメラ、送っているのは映像だけです。音声はないので、何を喋られても困りませんよ。さてと」
 おもむろにしゃがみこんだ彼が、なんの躊躇いもなく距離を詰めてくる。口を開けば吐息も感じ取れるほどに近い。
 思わず後ずさりしかけたが、その前に彼は腕を伸ばし、私の体を前から抱き竦める。想定外の動きに、ひゃあ、と情けない声が漏れた。
 動揺した。どうしようもなく。誤魔化しようがないような反応をしてしまったが、せめてもの抵抗に声を荒げる。
「ちょっとっ。犬みたいにじゃれつくの、やめてくれない!?」
「俺のことを犬呼ばわりしてたのはそちらでしょう? この部屋、結構寒いので、温めて差し上げますよ」
 親切ごかした言い方に虫酸が走った。彼の声にも視線にも情欲の色は感じ取れない。そのくせ温度の高い手が脇腹を撫でて背中へまわる。
「っ、開き直らないでちょうだい」
「開き直ってなんか。スパイの末路なんて、こうなるのも当たり前でしょう? 『犬が西向きゃ尾は東』って言いますし」
 鎖骨に唇が落とされた。
「ふ、ざけるのもいいかげん」
 吐き出そうとした言葉は、途中で勢いをなくした。後ろ手に当たる妙な感触に気づいたからだ。
「……どういうつもり?」
「どうもこうも、初めからこういうつもりですが」
 密着した体の背後――監視カメラの死角で、カチャリと手錠が落ちる音が聞こえた。
「こちらの事情に巻き込んで申し訳ないんですけど、今回は手を引いてもらえませんか」
「……本気で売られたかと思ったわよ」
 恨みがましい目を向けると、眉尻を下げて視線をそらす。自信家の彼にしては珍しい表情だった。強引な手口を使ったことについて、反省の気持ちはあるらしい。そして、切羽詰まった事情もある。この場でこれ以上の追求は不可能だろう。思わずため息が漏れた。
「猿回しの猿はゴメンだわ。あとで、理由ぐらい説明してもらえるわよね?」
 せめても、と約束を取り付ける。この場で引き下がることを条件にすれば、相手は飲むしかないだろう。
「……いいですよ、教えて差し上げます。あなたが、ここから無事に出られたならね」
 扉の外から、乱暴な足音が近づいてくる。
「大方、カメラを見て盛った馬鹿野郎でしょう。自分で片付けられますか?」
「手が使えるなら、素手でも勝てるわ」
 虚勢ではないと分かったのだろう。彼は安心したように表情を緩め、立ち上がる。
「では、また」
 彼と入れ違いに部屋に入って来た馬鹿の意識を狩り、私はひらひらと手を振った。
 本当は、再び会える保障はないのだけれど、彼はきちんと約束を果たしに来るはずだ。
 彼の事を、その程度には信頼している。



以前書いた諜報員と同じ人たちです。
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