第36回 二代目フリーワンライ企画 お題:「血の赤に似て」「誰にもやらない」
未完成の赤

2018.10.21


「ああいう絵、好きだったか?」
 美術館を出た瞬間に話しかけられる。若い男の声だ。一人でここに来たハルにとっては、いないはずの同行者だった。少し前から、わざとらしく後ろをついてきたのには気付いていたけれど。
 ハルは振り向くことなく答える。
「どういう絵?」
「輪郭のパキッとした、コントラストが強い感じの」
 そう言われて、最後に見た絵を思い返す。目が覚めるような赤が印象的で、他の絵よりも少しだけ長く足を止めた。タイトルは『華炎』だったか。黒い水の中で、華やかに火の粉を散らしながら、一匹の金魚が藻掻いていた。
「自分では描かないけど見るのは好き」
 会話はそこで一旦打ち切りになった。そう、という短い相槌のあとで、相手の男が黙り込んだからだ。
 ハルは立ち止まり、少し後ろを歩いていた男のほうを見た。
「……雨は、あの絵が”気に入った”の?」
 尋ねた声には、分かりやすく刺が混じる。青年は、ハルの視線に気付くと挑発的に微笑んで見せた。
「そうだと言ったら、描いてくれるわけだ?」
 雨という名を持つこの男を、ハルはよく知っている。何しろ、物心つくかつかないかぐらいの頃には、既に一緒に暮らしていたのだ。血のつながりはないが、数年前に離別するまでは兄弟のように育った。
 だからよく知っている。好みも、性格も、習性も……腕利きの絵画泥棒であることも。
「前にも言ったでしょう。私はもう、贋作は描かない」
「つれないな」
 雨は、さも残念そうに肩をすくめた。
 真作と贋作をすり替えて盗む彼の手口は、数年前に捕まった泥棒のやり方をそのまま踏襲している。もっとも、精度の高い贋作の仕入れには苦労しているようで、時々ハルに声をかけてくるのだ。何度断っても諦めが悪い。
「じゃあな、気をつけて帰れよ」
「うん」
 普通に返事をしながら、ハルは拍子抜けした。いつもならここで散々食い下がってくるのだが、今日の彼は引き際がやけにあっさりしている。
 首をかしげながら、ハルも帰路に着いた。


「やっぱり描いたな」
 完成間際の絵を背後から覗き込まれて、ハルはようやく他人の気配に気付いた。
 一人暮らしをしている部屋に、いるはずがない男だ。
 夢中になりすぎていた。いくら雨が足音を忍ばせていようとも、侵入前に鍵をこじ開けているはずだ。その音にも気付かないなんて。
「この絵、俺にくれよ」
 『華炎』を真似た絵に伸びかけた雨の手を、ぴしゃりと叩いて遠ざける。
「あげない。私のだから。雨にも、誰にも」
 自分の作品が犯罪に使われることを知ってからのハルは、習作であっても、自作の管理には気を使うようになった。今回の絵も、描き終わればすぐに破棄するつもりだ。
 眉をひそめた雨を前に、ハルは首を振る。
「どちらにしろ、だめ。あまりいい出来じゃない」
「どこが?」
 雨は、目の前に餌をぶら下げられた動物のように、ぎらぎらした目で絵を見つめている。
「色。赤がだめ」
 一瞬で視界と興味を支配した、あの赤がどうしても出なかった。水中の金魚は、血の赤に似たどろりとした色で沈んでいる。炎のような、苛烈さがない。
 雨は眉間に皺を寄せて、しばらく絵を見ていたが、「全く分からない」と匙を投げた。
「別にいいと思うけどな」
 そう言いつつも、ハルの自己申告を信じてくれたようだ。興味が失せたようで、何も持たずに立ち上がる。
「きちんと完成したら連絡してくれよ。貰いに来るから」
 去り際の一言には無視を決め込んで、ハルはキャンバスの金魚を黒く塗りつぶした。





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