第43回へキライ  お題:「後悔」
悔やめどもあなたは

2017.09.09


 ミアは今、どうしているだろう。
 彼女にはひどいことをしたと思う。私だけじゃない、誰も彼もが。
 けれども、私が一番残酷だった。


 アンネはふとした時に、幼馴染の少女のことを思い出す。
 ミア。えくぼが可愛くて、アップルパイを焼くのが上手だった。もう長く顔を見ていない。
 狭い村で同い年の女友達は貴重だったから、小さい頃から何をするのも一緒だった。ミア、アンネ、と気兼ねなく呼び合い、朝から晩まで遊び回った。林檎の木に上って、二人して叱られたことも一度や二度ではない。
 家の手伝いをする歳になると少し忙しくなったが、隙間を見つけておしゃべりしたり、一緒に小さな子の面倒を見たりと会えなくなるようなことはなかった。
 料理も縫い物も一緒に覚えて、村の人たちには姉妹のようだと笑われた。その場合、大抵アンネのほうが妹扱いでふくれたものだ。ミアのほうがアンネよりも少しだけ器用で、アンネのほうがミアよりも少々お転婆だったのは認める。


「アンネおねえちゃーん!」
 ちびっ子たちが林檎の樹の下で騒いでいた。
「どうしたの」
「あのね、ハンカチが飛んでっちゃった」
 彼らが指差すほうを見れば、枝先に引っかかって白い布が踊っていた。それなりに高い場所だ。小さいときには木登りなんてお手の物だったが、十五歳になった今では、さすがに躊躇いを覚える。
 はしごを持ってくるか、それとも大人を呼んでくるか、と考えていると近くをミアが通りかかった。
「どうしたの?」
「ミアおねえちゃん、ぼくのハンカチ……」
 泣きべそをかいた少年がミアに飛びついた。事情を察したらしいミアは、頭上を見上げてため息をつく。
「あらら、見事に引っかかってるなあ……スーッって、風が取ってくれたらいいのにね」
 ミアは少年の頭を撫でて慰める。すると
「あ、取れたっ!」
歓声が上がった。
 偶然にも風が吹き、ハンカチが枝から離れて落ちてきたのだ。子どもたちがミアを取り囲んで手を叩く。
「すごいね、言った通りになったよ。ミアおねえちゃんすごい!」
「ね、ラッキーだったね」
 珍しく幸運なこともある。一回だけならそれで済んだ。


 ある時、村に嵐が近付いてきた。激しい雨が降り出し、風が激しさを増していく。
 大人たちは深刻な顔をしていた。収穫間近の林檎が台無しになれば、村の暮らしは一気に傾く。何とかして乗り切らなければならない。
 この先どうなるのかと、不安なのはアンネやミアも同じだった。
「畑の周りに壁でもあったらいいのにね。そうしたら、林檎が風で落ちちゃうこともないのに」
 なんということはない独り言だった。ミアはたまにこういうことを言う。
「本当にそうだったら助かるのにね」
 ミアは勿論、冗談のつもりだったのだろうし、アンネだってそのつもりだった。
 しかし嵐が去った翌朝、誰もが村の異変に気付いた。
 林檎畑の周りを透き通った壁が囲んでいた。呆然としたミアが恐る恐るそれに近付いて手を触れると、砂糖菓子のように割れて、崩れて見えなくなった。
「ミアがやったの……?」
 口をついて出た一言は近くにいた大人たちにみるみる広がった。
「そうなのか」
「あれをミアが」
「あんなこと普通の人にできるもんじゃない」
 魔術師――それは村の人々にとって、遠い世界の生き物だった。実在することは知っていても、物語や噂話で聞いただけ。見たことのある人はいなかった。
 それでも、いつしかミアはそう呼ばれるようになった。


 アンネはミアと隠れて会うようになった。大人たちがあまりいい顔をしないからだ。
「どうして」
 ミアは嘆く。
「私は普通にしてただけなのに。『王都に行って、魔術師の学校に入れば』なんて言う人もいる。嫌だよ。私、村を出たくなんてない」
 その嗚咽を聞きながら、アンネはミアの背を撫でる。
「仕方ない、皆怖いんだよ。あんなことできるのは普通じゃないもん」
 ミアが目を見開いてアンネを見た。信じられない、という顔で。
 言ってはいけないことだったと悟ったが、遅すぎた。分かっていても止めることなんできなかった。本音が溢れただけだったのだから。
「アンネも……そう思ってるの」
 何も返せなかった。ミアは、それが答えだと受け取ったのだろう。
「そう……」
 一人で納得して、ふらりと立ち上がった。
 翌日、ミアが村を出たと人づてに知らされた。


 数ヶ月経って、一通の手紙が届いた。
『魔術の先生を紹介してもらい、その人のところで勉強することになりました。先生は思っていたよりも若いですが、研究熱心な凄い魔術師です。一生懸命学んで、誰かの役に立てる魔術師になりたいです。心配しないでください。ミア』
 村を出た彼女から連絡があったのは、その一度きりだった。


 最後の消息から二十年近く経った頃、風の噂で流浪の魔術師の話を聞いた。焼き菓子を売り歩きながら子どもたちに魔術の手ほどきをしているらしい。各地を転々とし、時々弟子をとって、その子が手を離れればまた次の土地へ移るのだという。ミア先生、という呼び名だけが村に立ち寄る。
 彼女の弟子だという魔術師たちには何度か会った。旅の途中だという彼らは、魔術で村の仕事を少しだけ手伝ったり、旅の話をしたりした。数年前に村に生まれた子どもの中にも魔術の才を持つ子がいて、その子は力の使い方を教えてもらっていた。
 弟子たちは立ち去る前に決まって、村の林檎でパイを焼いてくれた。師の一番得意な菓子だったのだと。一口かじると林檎の甘みとバターの香りが口の中に広がる。弟子たちのパイは作る人によって甘さも焼き加減もまちまちで、けれども食べ終わった後には、何故か彼女のことが頭に浮かんだ。


「僕の兄弟弟子が来ることがあれば、そのときは遠慮なくこき使ってやってくださいね」
 数日滞在した年若い魔術師は、冗談めかした口調でそう言って目を細めた。
 彼は世話になったと一礼をして荷物を背負う。村の者があれこれ土産を持たせようとしたが、身軽な方がいいので、と困った顔で断っていた。結局りんごを一つだけ受け取り、小さな鞄の一番上に入れた。
「ミア先生からこの村のことを聞いて、一度は来たかったんです」
 小さくて豊かではないけれど、よく手入れされた美しい村だと。大事に大事に作るから、そこで採れる林檎は世界一美味しいのだと。
 誇らしげに、そして少しの寂しさを滲ませて微笑む師を思い出して立ち寄る気になったと魔術師は語る。
「彼女は……今、どうしていますか」
 尋ねた声が震えている。アンネは自分で分かっていた。目の前の魔術師も気付いたようだったが、事情を尋ねることはせず、訊かれたことにだけ答えた。
「お元気ですよ。しばらく会っていませんが、時々噂話を聞きます。今は娘さんと一緒に旅を続けているみたいですね」
 村々を周り、子どもたちに魔術を教える旅。彼女の足取りは弟子であってもなかなか掴めず、用があるときは偶然鉢合わせるのを待つか、同じく魔術師である彼女の夫に言伝を頼むしかないそうだ。
 それでも、光明を得た気がした。
「あの」
 何か伝言を頼もうと青年を呼び止め、呼び止めた後で気が付いた。彼女に向かって、今更何を言えるだろう。怯えたのも、避けるようになったのも、村を出たくないと言う彼女を突き放したのも、アンネだった。
 おそらく幸せな日々を送るミアは、きっとアンネのことなんて覚えてはいないだろう。思い出したくもないはずだ。
 結局、首をかしげる魔術師に対し「お元気で」と当たり障りのない言葉を送った。


 家に入り、そのまま扉にもたれて膝を抱えた。何もする気が起きなかった。
『アンネ、パイが焼けたの。おやつにしない?』
 遠い日の幻聴が聞こえる。這うようにゆっくりとテーブルに近付いた。彼女の弟子が焼いたパイが、まだ数切れ残っている。
 アンネは小さく開けた口でパイを齧った。さくりとパイ生地が割れて、柔らかくなった林檎から甘酸っぱい汁が口の中に溢れた。ミアの作るパイと同じだ。
 林檎畑を駆ける彼女が目蓋の裏を横切った。彼女の面影は、いつも都合よくアンネに笑いかける。
「ミア……ふ、っく、うう……うああ」
 我慢をやめたら、子どものような泣き声が漏れた。泣きじゃくりながら、パイにかぶりつく。落ちた涙の雫ごと飲み込んでも、パイは甘い。
 ごめんね、なんて言えない。
 許して、なんて言えない。
 会いたい、なんて絶対に言えない。
 何かを言う資格も、伝える言葉も、アンネは持っていなかった。


 いつかまた、ミアの弟子と名乗る魔術師が村にやってくるだろう。
「火を貸してくれませんか。ここの林檎でパイを焼きたいんです。先生の一番得意だったお菓子で……」
 懐かしい味をご馳走になって、少しだけなら彼女の近況を聞けるかも知れない。
 けれども彼女は、戻ってこない。



知らないものが怖かった。知らなかった自分を恥じた。
Copyright ©2017 Maki Tosaoca