はかりごと

2017.08.17


「お帰りなさいませ、旦那様」
 三つ指をついて出迎えた妻は相変わらずの澄まし顔だった。
「……堅苦しいわ。とりあえず『旦那様』はやめ」
「はい。お帰りなさい、明(あきら)さん」
 ため息混じりに指摘すると、妻の千歳は言葉遣いと呼び方を少々くずして言い直した。しかし、よそよそしさは拭えない。こちらの希望に沿おうとしたのだろうが、せめて深々と下げた頭をどうにかしてから言って欲しいものだ。
「長々と家空けて悪かったなあ。俺がおらん間、何してはったの?」
「特に変わったことはございませんよ。家で繕い物などをしておりました」
「土産があるから後で渡すわ」
「お心遣いありがとうございます」
 仕事で家を空けて一週間。妻との久しぶりの会話がこの様では少々味気ない。三歩後ろをしずしずと歩く千歳に妻として不足はないが、不満は募る。
 少なくとも出会った頃の彼女は、こんな風に絵に描いたような良妻に収まる女ではなかったはずだ。箱入り娘と聞いて想像するような夢見がちな女ではなく、従順とも御しやすいとも言い難い。
 手ごわい女――それが、第一印象だった。

◆◆◆

「あんたがうちの店をねえ……」
 目の前に座る老婆は、かつて老舗呉服屋の主人を務めた女傑。次男ゆえ家業を継がない明が身の振り方を考えた末、思いついた伝手の一つだった。
「あんたの熱意と商才は認めるが、隠居した私の一存で、店を赤の他人に譲るわけにはいかないね」
 彼女は少し思案する風であったものの、結局明の頼みを一蹴した。しかし、仕方あるまいと引き下がろうとしたとき、老婆は思いついたように言う。
「まあ、あんたみたいな面白い男を野放しにするのも惜しいからねえ。せめて、親族だったら店を譲るのもやぶさかではないんだが。例えば、孫娘の婿とかね」
 老婆の意味ありげな笑みから、その意図するところが窺えた。
「今夜、その孫娘が逃げて来るんだ。意に染まない縁談を父親から勧められていてね、店どころか身代食い潰しそうな男が相手なんて可哀想だろう?」
「そのお孫さんと結婚したら、店の権利くれはるんですか」
「あの子が頷けばね」
 門の前で待っていると、老婆の言った通りその娘はやって来た。
 背筋を伸ばし少し顎を引いた歩き姿は軸が振れず美しい。絹織の着物の裾を決して乱さず、けれども少し早足で。提灯を持った右手の袖口を、左手でさり気なく押さえていた。その所作だけで、少女がそれなりの躾を受けた娘であることが見て取れる。
 しかし、良識ある若い娘は普通、夜半に独りで出歩いたりはしない。きっと家の者に気付かれぬよう抜け出してきたのだ。なりふり構わず大胆な事をするこの娘を頷かせるのは、骨が折れるかもしれないと明は思い直した。
「……どなたですか」
 鈴のような声が、警戒を滲ませて夜闇に溶ける。
「そないな顔せんでも。別に悪さしようとは思うてへんよ。まあ、ちょっとご隠居に頼まれてな」
「そうなのですか?」
 屋敷に上がり、老婆の紹介を受けても、その警戒は緩まなかった。世間知らずのお嬢さん程度なら耳触りのいい言葉で口説き落とせると侮っていたが、やはり一筋縄ではいきそうにない。
「あなたと結婚する理由がございません」
 案の定きっぱりと言い切った娘に対し、遣り口を変えることにした。
「理由がないか、よう考えた方がええよ……醜聞は商いの敵ですやろ?」
 こちらの言う意味を量りかねたのか、娘が視線だけでその意味を問う。明は声を低め、囁くように続けた。
「ええの? 嫁入り前の娘さんが、こんな夜更けに出歩いて。『呉服屋の娘さんが』て噂になっても文句は言えへんのとちゃいます?」
 婉曲な脅迫に、娘の方は一瞬だけ眉を顰め――微笑んだ。
「何かと思えば……陳腐な脅し文句」
「可愛(かい)らし顔してきついこと言わはるなぁ」
 娘は、今度は何も言い返さなかった。
 こちらを見つめる双眸からは、当然だが、恋情のような熱は感じられない。そして意外なことに、明への拒絶もなかった。静かにこちらを見る透き通った目に、背中がむず痒くなるような居心地の悪さを感じ、かといって身動きも取れずじっと待つ。こちらを窺う瞳は何事か思案しているようで、逸らすことはできなかった。
 時間にするとそれほど長くはなかっただろう。それでも、千歳が瞼を伏せるまでを永遠のように感じた。呼吸すら忘れていたと気付いたのは、どちらともなく吐いた息の音が、やけに大きく聞こえたからだ。
「よろしくお願い致します」
 両手を前につき、頭を下げながらそう告げた声は凛として明瞭。しかし、静かに落とされた答えがあまりに唐突だった所為で、意味を捉えるのに少し時間が掛かった。
「……えっ、ほんまに」
 呆然としたまま口をついて出た言葉は、自分でも間が抜けていたとは思うが、隣室に控えていた老婆に大笑いされたのは不本意である。明は縁談を嫌がる娘を口八丁手八丁で丸め込むつもりでいたのだ。手応えがないところに、いきなり結果が降ってきても腑に落ちない。
 老婆はひとしきり笑って満足したのか、上機嫌のまま孫娘に向き直る。
「話は決まりだ。本当にいいんだね、千歳」
「はい」
 顔を上げた娘は、諦めたり意固地になったりといった様子ではなかった。だが、脅し文句が効いたとも思えない。
 その目に秘められた真意は、ついぞ推し量れぬままだった。

◆◆◆

 元々強引に押し通した話だ。それも、別に彼女自身に想いがあったわけではない。老婆から店を譲り受ける条件が『孫娘の婿』だった。それだけだ。
 誰かに掠め取られる前にという焦りも手伝い、小狡い脅しも使った。だから、やけにあっさりと受け入れられたのがずっと気掛かりになっている。明を見据えたあの瞳が何を思っていたのか。そして今、明をどう映しているのか。
 夫婦仲は不和ではないが、打ち解けているとも言い難い。土産だと言って渡した包みの紐を丁寧に解く姿は、それなりに嬉しそうにも見えるけれど。
 白く細い指先が箱をそうっと開け、簪(かんざし)を手に取った。慈しむような手つきで表面を撫でる。
 簪の優美な形に沿って千歳の視線が動く。黒漆の上品な艶をなぞり、表面に施された蒔絵の模様をゆっくりと眺めて細められるその目に、ふと既視感を覚えた。そして、腑に落ちた。
「あー、なるほどなあ……品定めの目やったわけか」
 明が思わず漏らした低い笑い声に、千歳は訝しげな声を上げる。
「何のことです?」
「ん、あんときの話や。初めて会(お)うたときの」
 千歳から簪をそっと取り上げて箱に戻す。困惑する柔らかな手を捕らえたまま、明は問いかけた。
「なあ、千歳。なんで俺との縁談受けたん?」
 唐突な問いに首をかしげる千歳を見て、言葉を加える。
「結婚するん嫌やったんやろ。家を抜け出して逃げるぐらいには」
 千歳の怪訝な表情はそのままだったが、躊躇いながらも口を開いた。
「父が持ってきた縁談の、碌でもない相手が嫌だっただけで、別に結婚自体が嫌だったわけでは……私は店を守れるならそれで良かったので」
「まあ確かに、言うたら悪いけどお義父さんは、商才と人を見る目は足らへんな」
「ええ、あのまま父に任せていたらどうなっていたことか」
 ふふ、と今でこそ冗談めかして笑う千歳だが、あのときの彼女は強い意志で動いていたに違いないのだ。それこそ、肉を切らせて骨を断つような選択をするほどに。
「ほんなら、ややこしい話は抜きにしてな、俺で手を打った理由が知りたいんやけど。初対面の俺も大概、碌でもない奴やったやろ」
「身も蓋もない言い方になってしまいますが……」
「かまへんよ」
「利益のために手段を選ばない方なら、手を尽くしてくれそうでしょう? 明さんの、そういう所が気に入ったのです」
「……そら、おおきに」
 本当に身も蓋もない言い方をされて思わず苦笑した。しかし、別に不愉快とも思わなかった。率直に物を言う千歳は初対面の印象に近い。そして、それを存外好ましく思っている自分がいるのだ。
 長らくの疑問が解けてようやく肩の荷が降りた心地だが、妙に思う事はまだ残っている。
「俺のこと、嫌いなわけやないんやろ。ほんなら、なんであんな他人行儀にしてはったん?」
「あの、男の方と関わることが殆ど無かったものですから、不慣れで」
 その言葉に明はようやく、千歳が箱入り娘であったと思い出した。初対面のときは、異性として意識するよりも先に、見定めようとする冷静さが頭を占めていたのだろう。
「それに、あまり煩わしいことを言って、面倒に思われては困ります」
「思わへん思わへん。むしろ、えらい堅苦しいなあて思うてたから、そないかしこまらんでええ。もっと気い楽にして。言うてや、思うてること」
 千歳はきょとんとして、それから嬉しそうに微笑んだ。
「ではお言葉に甘えます……明日から」
 小声で付け足された聞き捨てならない一言に、明は油断しかけていた顔を上げる。
「明日から!? 何でやの。今日からでええやないか」
「いきなりは、無理です。恥ずかしい……」
「今更何言うてはるの」
 腰を浮かして逃げかける女の細い手首を捕まえて留める。ほら言い、とおどけた調子で、半分は本気で促すと、千歳は瞳を揺らして目元をうっすら染めながら、おずおずと口を開く。
「簪、とても嬉しいです。大事にします」
「ん、また着けたとこ見せてな」
「あと、お仕事が忙しいとは思いますので、無理はしないで欲しいのですけれど、できるだけ早く帰ってきていただけると……」
「何で?」
「あんまり家を空けられると、寂しいので……」
 羞恥ゆえか、終わりの方は消え入りそうな声だった。
 ようできましたと満足気に頭を撫でると、千歳は耐え切れなくなったように横を向き、袖で顔を覆う。見た目に似合わず冷静で賢しい女も、こうなってしまっては形無しだ。年相応に初心な反応を楽しみつつ、体を引き寄せて宥めるように背を叩いた。華奢な肩が怯えたように強張ったが、そのうち力が抜け、体を素直に預けてくる。
 着物の後ろ襟から滑らかに覗く首筋は、ひと刷毛赤く染まっていた。



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ジャンルが恋愛とされてて、二度見したんですが、自分で読み返しても糖分過多でした。書くときはね、意識してなかったの……
Copyright ©2017 Maki Tosaoka