百人一首アンソロジー さくやこのはな 参加作品
浮遊少女とひどい人

2017.03.31


〇八二(道因法師)
思ひわび さても命は あるものを
憂きに堪へぬは 涙なりけり 

 ずっとずっと、息苦しい場所を彷徨っているような気がする。寝不足だけが原因ではない。
 どうしても一人になりたくて、昼休み、誰にも言わず教室を抜け出した。立ち入り禁止の屋上には当然誰もいない。これで静かな時間を過ごせる。
 しかし、そう思ったのも束の間。いつの間にか『彼』がやって来て、寝転がった私を見下ろしていた。
「何やってんだ?」
「休憩」
「それは見たら分かる」
 クラスメイトの彼は許しも得ずに隣に腰を下ろす。
「加賀くんこそ何しにきたの?」
「俺も休憩」
「こんなところで?」
 そう問えば、加賀は視線を彷徨わせ、歯切れ悪く答える。
「あー……桜井を探しに来た。最近、なんていうか変だろ? お前」
「気のせいじゃない?」
 加賀は気付いていない。彼と一緒にいたくなくて、私はわざわざこんなところまで来たのだ。
「なんか悩みがあるなら言えよ」
「どうして?」
「友達じゃん」
「……友達、ね」
 なんのてらいもない一言が、真綿のように私の首を絞めていく。彼と話すその度に、追い詰められた気持ちになる。
 近い距離に耐え切れずに起き上がった。
「桜井?」
 急に立ち上がったせいで目眩がする。フラフラと足元が覚束無いまま、一歩一歩進み、屋上の手すりを握った。柵はあまり高くない。スカートの裾を押さえながら、片足を持ち上げて乗り越える。
「おいっ!」
 ようやく状況が飲み込めたのだろう。加賀の焦った声が背中にぶつかった。  加賀はこちらへ駆け寄り、乱暴に私の腕を掴む。その目にはきっと、私だけが写っている。けれども、何も見えちゃいない。
「加賀くんは、全然分かってないね」
 加賀のシャツの襟を掴んで、顔を引き寄せる。おそるおそる触れた頬は緊張していた。血の気が引いて冷たい。私の指が熱いだけかもしれない。こらえきれずに、一度小さく息を吐いた。そして――その唇に口付ける。
 一瞬にも満たない行為を終えて、正面から彼の表情を見る。加賀は呆然と目を見開いていた。
 死ぬ気なんて毛頭ない。けれども、一人で生きていたくはない。そして、二人ならいいというわけでもない。『友達』では嫌なのだ。
 柵をもう一度越え、危険のない場所に戻った。空からは遠ざかったが、身体がふわふわと浮かんでいるような気がする。
 もう一度彼の顔を見ようとして、目の前が急に暗くなる。足元が不安定にぐらりと揺れた。頭痛がひどい。

 来た覚えのない保健室のベッドは、汚れを許さぬ清潔な匂いがした。陽光で赤みを帯びた部屋はどこか浮世離れしている。寝ている間に随分と時間が経ってしまったらしい。頭の中は霞がかって、夢がまだ続いているような気がした。
 無意識に現実感を求めた自分の手が、茜色の天井に向かって伸びようとするのが見えた。何かを求めるように宙を彷徨っている右手と、未だシーツを握りしめている強ばった左手。
どちらも自分のものであるはずなのに、全く思い通りに動かない。
 まるで自分にまで愛想をつかされたみたいだ。
 頭上にかざした右手を視線とともに窓の外へ向ける。沈みかけた夕日を掴んで、このまま時間を止めてしまえるのなら。求めるままに無力な手を伸ばす。そんな非現実的な想像には、決して届くはずもないのだけれど。
 その途中で、動きを妨げるように私の手首を取ったのは、私とは温度の違う手だった。骨ばった手が私の手首を押しつぶすような動作で捕らえる。
「痛いよ、加賀くん」
 いつからか隣に立っていた影が、カーテンの隙間から部屋に差し込む光を遮っていた。
「なんで、あんなことしたんだよ」
 その声音が憤りを隠そうともしていないことに驚く。どちらかと言えば明るく穏やかなな彼が、どうして今日この時に限って激情を滲ませているのか。
 不利だ、と感じた。ここまで感情を露わにした人間を前に、何でもないような顔はできそうにない。
「さあ?」
 それでも、問いに答えた自分の声が案外と普通で安堵する。
「自分でも、わかんないや」
 虚をつかれたのか、私をシーツに縫いとめていた手から力が抜けた。
 押さえつけられているわけでもないのに、私は身体を起こせなかった。具体的に何が悪いとは言えないが、私を構成する核の部分が抜け落ちてしまったようで、瞬きすらも億劫だ。ありったけの衝動と感情を、あの一瞬につぎ込んだ。だからもう、何も残っていない。
「……先生、呼んでくるから」
 加賀が、退室間際にもう一度振り向く。席を外すのは気が進まない様子だった。
「勝手にいなくなるなよ」
 その言葉には何も返さず、私は手首をさする。先ほど握られた部分は、強い力がかかっていたらしく、色が変わっていた。確かに痛みを感じているのは自分のはずなのに、他人事のような感情しか沸かなかった。
 口づけは夢ではない。けれども、あの一瞬の行為で、何か変わったのだろうか。取り乱した彼は、私をつなぎ止めようとした。でも、友人の彼は、どんな時でも間違いなくそうする。
 いっそのこと、目覚めたときに彼がいなければ良かった。そうすれば、私のしたことが無駄ではなかったと分かるのに。加賀の見せた激高も、『あんなこと』という言葉も、危険な行動についてのもので、それ以上でもそれ以下でもない。
 忘れたような振る舞いは、かえって残酷だ。
「友達、か」
 ぽたりぽたりと音を立てて、雫がシーツに落ちる。止まらない涙は、手首の痛みの所為にした。

「百人一首アンソロジー さくやこのはな」に参加させていただきました。 企画サイトはこちら⇒(http://sakuyakonohana.nomaki.jp/
Copyright ©2016 Maki Tosaoka