透明になる確率

2016.05.08


 この世にはどうやら、『当たりくじ』と『はずれくじ』があるらしい。
 それらは無数にあって、今この時何本ずつあるのかなんて分かりはしない。いつ『はずれ』を引かされるのかも分からない。
 そんな世界のことを、彼女はずっと前から知っていて、独りで毎日くじを引いていた。いつか来る『はずれ』に怯える心を誰にも見せずに、たったひとりで。
 そんな彼女を京平はずっと見ていた。そして、その時が来ても、見ていることしかできなかった。
 今となってはもう、彼女の笑顔すら見えない。


 真っ青な空は高く澄み、涼しい風が樹木の枝を撫でていく。今秋では一番の快晴だった。降水確率は、午前・午後ともにゼロパーセント。
 ドラマや漫画では誰かが死ぬと当然のように雨が降るが、現実なんて所詮はこんなもの。彼女がいなくなっても空は相変わらず青く透き通っている。
 葬儀が終わると参列者はだんだん数を減らしていき、悲しみとすすり泣きに満ちた空気はもう、その残滓のみとなった。きっと、死んだ人はこうして忘れられていくのだ。
 京平は、諸事がひと段落したところで、すっかりがらんとした会場に独りで残っていた。
 首を回しつつ立ち上がると、立ちくらみでしばしよろめく。思えば、彼女が死んでから今日はもう三日目。今になるまでろくに寝ていない。
 覚束ない足元で会場の外にでる。あてもなくぶらぶらと歩きながら、茜色に染まり始めた秋空の下でふと立ち止まった。
 彼女と初めて出会ったのは、確か夕焼け色の時間だった。あの時は春だったけれど。そこで、意外にもはっきりと覚えていた自分に、少し驚く。全く意識していなかったようで、大事なことはしっかり記憶していたということか。京平は独り苦笑を漏らした。
 優しく、けれども少し冷たい風が頬をなぶる。なんとなくそれが、彼女の冷たい指先を思い出させた。細く美しい、血の気の失せた指先を。
 そのまま、彼女と過ごした日々に思いを馳せる。出会ってからどのくらい経っただろう。
 会話、ふとした仕草、たまに見せる表情。出会ってからの記憶は今になっても鮮明で、つい昨日のことのよう。それなのに、もう彼女はいない。どこにも、いない。
 元々彼女は病弱だった。それでも、綱渡りのような日々をここまで生き抜いてきたのだ。よく笑い、よく怒り、よく泣いた。毎日を懸命に過ごしてきた。
 それなのに今になって、思いもよらない時に『はずれくじ』を引いてしまった。覚悟なんて、出来ているはずもなかった。
 京平以上に、本人が一番驚いただろう。悔しかっただろう。それとも、仕方ないと言って、彼女はいつものように笑って逝ったのだろうか。


「おとうさん」
 小さく高い声が足元から聞こえた。気付けば、小さな手が喪服の裾を掴んでいた。思い当る人物は一人しかいない。娘の、理香。
「理香、どうした?」
「おばあちゃん、かえったの」
「そうか」
 葬儀の間、義母に預けていたのだが、彼女も先ほど帰った。理香はひとりで京平を探しに来たらしい。
 しゃがんで目線を合わせると、大きな黒目がちの瞳がまっすぐこちらを見ていた。この子はいまいち表情が読みづらい。ぐずったり、癇癪を起こすこともあまりない。義母が言うには今日も、結局一度も泣かなかったそうだ。
 この子は、母親にもう二度と会えないということが分からなかったのか。幼いゆえに死という概念は理解しがたいのかもしれない。
「帰るか」
 少女が頷くのを確認して、そっと抱きあげる。最近また重くなった。血を分けた娘が、きちんと生きていることが、こんなにも感慨深い。
 母親譲りの柔らかい髪をすくと、亡き妻の面影が不意に思い出されて、瞼が熱くなる。
 きつく瞼を閉じて、流れようとする涙をこらえ、唇をかみしめた。
「おとうさん」
 耳元でむずがる声がした。幼い顔を覗き込むと、真っ赤な頬で、今にも泣きだしそうな表情で、それでも涙を懸命に堪えていた。
 その様子に、ふと思い当ったことを口に出した。
「……俺が泣かないから、我慢してたのか?」
 口元を真一文字に引き結んだまま小さく頷く娘に、京平は小さく苦笑した。こんなに小さな子供が、涙を堪えている。周りを、父を気遣って。
 この子は、分かっていた。母親の死を理解してなお、耐えていた。
「我慢しなくていいんだぞ」
 少女は、身を固くして大きく首を振った。あまりにも頑固で困ってしまう。こんな所は母親にそっくりだ。京平は、その小さな背をあやすように叩いて、
「じゃあ、お父さんと一緒に泣くか?」
 少女は、きょとんとした顔で目を見開く。
「おとうさんもなくの?」
「お父さんも、泣きたいけど、独りで泣くのは寂しいんだ。だから、一緒に泣こう?」
「……うん」
 理香は、父親の首に小さな腕でしがみつくと、張り詰めていた糸が切れたようで、わんわんと声を張り上げて泣きだした。
 京平は娘をしっかりと抱きしめて、震える背をなでる。子供特有の高い体温が心地よく、そうしているうちに自分の頬を流れるものに気づく。
 京平は、少女の鳴き声を聞きながら、自分も嗚咽をもらし始めた。


 どのくらいこうしていたのか。既に太陽は沈みかけていた。
 耳元で寝息が聞こえる。理香は父親にしがみ付いたまま、いつのまにか泣き疲れて眠っていた。
 この三日間、ばたばたしていたから、無理もない。自分もそうだが、この子だって落ち着いて寝られなかったに違いない。重さでずり落ちて来た娘を抱え直し、その小さな頭を撫でた。
 泣いた後は、妙にすっきりとした気分だった。
 妻の死を理解したくなかったのは、理香ではなく自分だった。受け入れることが出来なくて、幼い娘にも我慢をさせてしまっていた。
 最初から、意地を張らずに泣いてしまえば良かったのだ。
 涙をべたべたと擦って真っ赤になった小さい顔に、またこみ上げるものがあり、慌てて目元をぬぐう。
 きっと、この子ももう、くじを引き始めている。
 いつはずれるか分からない、当選率不可視の無限のくじを。
 でも、その中には、自分みたいな馬鹿と出会って、結婚して、子供を産んで、そんな幸せなくじだってあるに違いない。そんな『あたりくじ』を引くまでは、せめて『はずれ』を引かないで欲しい。
 だから、幸せになれる確率は見えなくとも、愛すべき馬鹿にこの子が掻っ攫われるその時までは、『あたりくじ』を増やしてやろうじゃないか。
「さて、そろそろ帰るか」
 独り呟いた声に、
「うん、そうだね」
と彼女の声が聞こえた気がして、はっと振り向く。誰もいない。
 彼女はもういないから、これからは二人で生きていく。
 やがて、幻の声も透明な風にさらわれて、余韻ごと掻き消え、京平はまた少し涙を流した。



 昔書いた話を改稿して掲載。
 元は18000字ぐらいの話でしたが、彼と妻の馴れ初め部分をがっつり削り、驚きの少なさに。すっきり。
 意図せず親子話が続きましたが、私の書くお話でこんな雰囲気のは稀です。
Copyright ©2016 Maki Tosaoka