へキライ  お題:「吸血鬼」
手当てはもういらない

2016.11.19


 私が怪我をしたとき、彼は絶対に近づいてはこなかった。
 例えば、私が転んで膝を擦りむいたとき。
 私を囲んで口々に気遣うクラスメイトよりも、さらに後ろに彼はいた。血の滲んだ傷口を遠巻きに見て顔をしかめ、黙って目をそらすとそのままどこかへ行ってしまい、数日間は距離を取られたのを覚えている。そのくせ、ちらちらとこちらの様子を窺い、傷がふさがりかけた頃に「もう治った? 大丈夫?」なんて眉を下げて聞きにくるのだ。
 ここまで記憶が鮮明なのは、私も幼心ながらにショックだったのだと思う。
 生来、面倒臭がりの彼ではあるが、思いやりや優しさは人並みにある。怪我人を放っていくような性格とは思えない。だから、その後も度々見せる奇妙な反応に、私は首を捻っていた。


 一瞬。その後に、鋭い痛みが指先を苛む。
 焦って取り落としたカッターが、床にぶつかって仰々しい音をたてた。混乱した頭は、自分の指のことよりも先に、どこか汚していないかを心配している。
 教室にいるのは、私と彼の二人きりだった。
 視界の端に、目を見開いて静止する彼が見える。その視線は宙に浮かせた私の左手に。指先の赤い玉がぷくりと膨れ、下に落ちてはじけた。
「ごめん、誰か呼んできてくれる?」
 動きを止めたままの彼に、そう声をかけた。これまでの経験上、彼に手当ては期待できないだろうから。
 しかし予想は外れて、何故か彼は距離を詰め、私の手を取った。彼の手は、小さく震えていた。
 血は今も指を伝い落ち、手のひらまで赤い線を伸ばしている。それを見て、彼の目が細められた。掠れた声が耳を打つ。
「……治そうか」
「治してくれるの?」
 意味を解する間もなく、反射的に返した言葉が決定打だったのだと思う。
 彼は答えず、ただ唇を私の手のひらに寄せる。痛みで熱を持つ患部よりも、掠める吐息が熱い。
 彼の舌先が血でできた道筋をなぞる。手のひらの中心の窪みを通り、人差し指の付け根に口付けられた。彼はひどく緩やかに、傷口へと近づいていく。やがてそこに到達すると、第一関節までを覆うように口に含んだ。
 非現実的な光景だった。彼が私の指を食んでいる。舐めとって、吸いついて、流れ出るものを一滴も落とさず。
「っ、あ……」
 背筋をはしる未知の感覚に、堪えきれずに息を吐いた。恐怖にも似ているが違う。
 指先に集中していたはずの彼が、いつの間にかこちらを見ていた。呼吸の乱れた私と、目元を染めた彼。互いの息づかいと指を絡め取る水音を、耳が勝手に拾ってしまう。
 ふらりと傾ぐ身体を支えられて、ふと我に返った。
 私たちは、何を。
 咄嗟に逃れようとした手首は、思わぬ強さで捉えられて動かない。
 私が彼の正体を思い出したのは、血が止まったその後だった。傷口は綺麗に塞がり、僅かな痛みもない。
 四肢を弛緩させ、床に崩れた私を抱えて彼は眉を下げた。
「ごめんね、やり過ぎた?」
 ようやく分かった。今までの彼は、自ら枷をしていたのだ。本能と衝動を押さえ込むために、わざと遠ざかろうとしていた。
 だが、今はもう。
 吸血鬼の、血のように赤く澄んだ目に、昂奮が滲んでいる。


 私が怪我をしたとき、彼は絶対に近づいてはこなかった。以前までは。
 あの日から、私の怪我を見て彼が逃げることはなくなった。
 その代わり、物陰まで私の手を引き、あの時のように言うのだ。
「治そうか?」
 瞳の奥には、炎に似た色が灯っている。



吸血鬼と聞いて、いろいろなパターンが浮かんだんですが、まずはこんな感じで。 (外見ロリ吸血鬼と青年の話とかは、また機会があれば)
Copyright ©2016 Maki Tosaoca