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2016.10.02 発行
うっかり者と同居人が家の鍵をさがす話

鍵が見つかりませんお月様。 sample



 くしゃみが二回、閑静な住宅街に響く。身を震わせながら途方に暮れて吐いた息は、もう白くはなかった。
 夜空に浮かぶ寒々とした色の満月は、かれこれ二時間ほど前から私のことを見降ろしている。月光は変わらない素っ気なさ。闇の中で私を浮かび上がらせる温かみのない光が、スポットライトのように孤独を浮き彫りにする。
 ふと覚えた寂寥感に耐えきれず、私は一人玄関先にしゃがみこんだまま、うう、と情けないうめき声をあげた。両腕に顔を埋めて、しばらくするとまた顔を上げて。そんな無意味な動作を何度も繰り返しては、依然として変わらぬ現状にため息をつく。
 一人で美しい月を仰げば、じわりと視界がにじんだ。
 かの有名な文豪・夏目漱石が『I love you』を『月が綺麗ですね』と訳した逸話は、(実話であるかどうかはさておき)有名である。しかし、いくら月が綺麗でも、分かち合う相手がこの場にいないのなら意味はない。
「月が綺麗ですね」
 もし会えたのなら一番にそう言いたい相手を思い浮かべる。いや、最早、『会えたら』なんて願望に縋っている場合ではない。今すぐに会いたいのだ。もし会えなければ、私はじきに死んでしまうだろう。
 これは決して大袈裟に言っているわけでも、比喩でもない。
 長々とセンチメンタルにひたっていた所為で思い出すのが遅れたが、実際のところ、夏目漱石だのアイラブユウだのについて、暢気に考えている余裕などないのである。
 帰宅後、玄関のドアの前で同居人の帰りを待つこと既に二時間。少しでも暖をとろうと指先をこすり合わせるが、感覚はほとんどない。
 今の私を脅かしているのは、心に吹く風などという精神的なものではない。現実で私の体温を奪っていく冷たい風だ。まさに今、冬も顔負けの強い冷気に頬をなぶられている真っ最中なのだ。
 三月よ、まがりなりにも春と名乗るからには、それ相応の態度を見せて貰わなければ困る。決して雪など降らせてはならないのである。
 月明かりの下ついに舞い始めた白い結晶を睨み付けていると、風の混じった雪はだんだんと激しさをましていく。今年の3月はなかなかに反抗的だ。
 さて、私はあと何分で凍死するだろうか。


 ここ数日は春らしい気候だったため、完全に油断していた。
 今の服装は、膝丈のスカートに長袖のカットソー、かろうじて防寒に役立ちそうなのは、羽織った厚手のカーディガンのみ。雪の舞う夜八時に屋外で過ごすには、心もとない装備だ。
 お気に入りのコートをクリーニングに出したのは失敗だったかもしれない。日曜日で暇だったからといって、昨日急いで出さずとも、あと一週間ぐらいは様子を見れば良かった。あるいは、別にいつものコートでなくても何か防寒に役立ちそうなものを持って出かけるべきだったのだ。朝は急いでいて、そこまで気が回らなかった。
 もっとも今更こんなことを考えてみたところで後の祭りだが。
 さて、このまま凍え死んだとしたら、朝の天気予報でお馴染みのお姉さんを恨むべきか。彼女が「今週は温かい日が続きます」などと笑顔でほざいていた所為だろうか?
 それとも、今日は仕事が休みだったはずなのに、何故か不在の同居人を恨むべきか。今朝、私が家を出るときには、「今日は一日家にいるから」と言っていたくせに、外出している所為だろうか?
 否。私にだって、分かっているのだ。非は全面的に私にある。


 家の鍵をなくした。
 気づいたのは終業後、混んだ電車に揺られて家に着いてから。あるべきものが影も形も見当たらない。バッグの中にあるはずの鍵が。
 スカートのポケットをゴソゴソと探っても見つからない。その場で跳んでみても、鍵やキーホルダーが擦れるような音は鳴らなかった。
 もう一度バッグの中を見る。門灯で中身を照らしても見当たらない。最終的には、バッグを逆さにしてぶちまけるなんて暴挙にも出た。それでも結局見つからなかったのだ。
 さらに荷物をぶちまけたことによって、重大な事実が発覚した。携帯電話も、ない。
 踏んだり蹴ったりとはまさにこのことである。これでは、同居人に連絡することもできない。
 ちなみに、携帯電話に関しては所在がはっきりしている。家の中だ。今朝、電池の残量が少ないことに気付いて充電器につないだわけだが……家を出るときに持った覚えはない。携帯電話を不携帯。短時間でもいいから充電しようと思ったのが裏目に出てしまった。何故今日に限って。
 家の前で大人しく同居人を待つ以外の選択肢も、考えることは考えた。
 例えば、通勤ルートを遡って鍵を探す。しかし、どこにあるかも分からない。家から自宅最寄りのA駅までの間か、電車の中か、それとも会社と会社最寄りのB駅までの間か。最悪、会社まで戻っても見つからないケースも考えられる。家から会社までの道のりは往復一時間半。同居人が帰ってくるのとどちらが早いか微妙なところだ。
 適当な店に入って時間を潰そうとも考えた。しかし、そもそもそんな適当な店がない。ここは最寄り駅すら無人の田舎町。夕方の六時をすぎれば店が締まり出し、七時を超えれば商店街はシャッター街と区別がつかない有り様なのだ。それに同居人との連絡手段がない以上、帰宅時間を遅らせれば余計な心配をかけることにもなる。
 つまりは八方塞がりなのだ。もはや、今から起こることを受動的に受け止めることしか、私には許されていない。
 それが仮に『二十代女性、玄関前で凍死』なんてことであっても。……無論、全力で阻止したい。しかし、阻止する術はない。


 絶望に浸ってぐずぐずと鼻をすすっていると、長身の影が冷たい月光を遮った。
「みちる? 何してんだよ」
 低く響くその声は待ち望んでいたものだ。顔をあげると、期待通りの人物がそこにいた。帰ってきたのだ。
 両手にスーパーのビニール袋を抱えている。買い物帰りらしい。そういえば、昨日の夕食で冷蔵庫の中身を空にしたのは私だったか。同居人の気遣いも知らず、不在を恨んだ自分はとんだ恩知らずである。
 まあ、そんな瑣末事はどうでもいい。
 すっかり待ちくたびれていた私は、最後の力でふらふらと立ち上がり、胡乱げに顔をしかめる同居人の胴体に、勢いよく抱きついた。
「エイちゃん!」
「わっ、冷たっ! 何でお前こんなに冷えてんの」
 雪が積もった肩や背をバシバシとはらう手が痛い。エイちゃんは力加減に遠慮がなさすぎだ。それでも、私は安心感に満たされていた。外套の胸元に頬擦りしながら、ようやく会えた彼が夢でも幻でもないことを確認する。
「寒かったよお、帰ってきてくれてありがとう! もうダメかと思った」
「……は?」





 家に入るなり、問答無用で風呂に放り込まれた私は、「百数えるまででてくるな」とのお達しどおり湯船につかっていた。
 私が外で待っていた時間を告げた時の、エイちゃんの表情と言ったら……般若? 夜叉? とりあえず、普段のバリエーションに乏しい表情が嘘のような豹変ぶりだった。メガネで誤魔化してはいるものの、エイちゃんはそもそもの目つきがよろしくないので、険しい顔が似合いすぎて怖い。その威力たるや、肩まで四〇度のお湯につかっていても、背筋に寒気が走る程度。
 全身がすっかり温まってから浴槽をでて、部屋着の上からカーディガンを羽織った。
 髪を乾かしてリビングに出ていくと、部屋はすっかり温まっていて、食卓には夕食が用意されていた。食事当番は二日ずつ交代で、本当なら今日は私の番だ。しかし、私は今風呂から出たばかり。
「ごめんエイちゃん、今日の当番私だったのに」
「このぐらい気にすんな。また今度交代な。さてと」
 エイちゃんは椅子に座り、身振りで私も席に着くよう促した。なんとなく周囲の空気が冷えた気がする。今日は寒いとか、風呂上がりだとか、そういうことは関係なく。
 私は幾分か緊張した面持ちで、食事の準備が完璧になされている食卓についた。食器もお箸も整然と並べられている。几帳面なエイちゃんらしい。
 正直、私なんていい加減でできないことだらけで、エイちゃんにはいつも怒られてばかりだ。私は、燃えるゴミといっしょに丸めた雑誌をゴミ箱に突っ込んで、「雑誌は資源ゴミだ」と怒られたり、寝坊してエイちゃんに叩き起こされた揚句「布団ぐらいちゃんと畳め」と怒られたり。
 だが、今回はいつもと違う。なんというか、もっと怖い。
 恐る恐る相手の顔を見上げる。実際エイちゃんは私より頭一つ分背が高いが、自分が縮こまっている分いっそう大きく見える。
 上目遣いに顔を覗き込むと冷え冷えとした視線とぶつかり、慌ててまた下を向く。メガネのレンズ越しでも、冷気は全く緩和されていない。いろんな人からインテリヤクザと恐れられている(もしくは揶揄されている)その容貌は伊達ではなかった。怖い。
 震えあがる私に追いうちをかけるように、頭上から声が落とされた。
「じゃあ、そろそろ説明してもらおうか。なんで家に入らずにあんなに寒いところで待ってたのか。勿論教えてくれるよなあ?」
 いつもより一段と低い声。淡々としているのはいつものことだが、明らかに怒気をはらんでいる。
 体感温度が五度は下がった。


「で、鍵を失くして家に入れなくてずっと座って待ってた、と。ばーか」
 事情を話すと、不機嫌そうな声と共に軽く額を小突かれる。
「俺に電話すればよかっただろ。そうすりゃすぐに帰ってきたのに。どうせ今日は休みだったし」
 もっともな意見に、いよいよ顔を上げられなくなった。それは当然の発想だ。私だって思い付きはしたのだ。実行できなかっただけで。
「携帯、家に忘れた……」
 恐る恐る口にして、エイちゃんの背後にある箪笥の上を指差す。コードにつながったまま置きっぱなしの私の携帯電話がある。
 エイちゃんの脳は予想外の返答にフリーズしたらしい。私の方を見たまま数秒、振り向いて携帯電話を確認して数秒、再び私に視線を戻して数秒。無言の時間が恐ろしく長かった。
 エイちゃんが気を取り直すまでの間、私も口を閉じる。下手に刺激すると火に油を注ぐことになりかねないからだ。
「みちる、お前って本当に……」
 エイちゃんは大きく息をはいて、自分の額に手を当てた。呆れたように首を振る。
 怒鳴りつけられることも覚悟していたこちらとしては、予想外に穏やかなリアクションに拍子抜けした。
「『馬鹿な子ほど可愛い』とは言うけどな、みちる……」
「う、うん?」
 勿体ぶった言い方に本意を掴み兼ねて、曖昧な相槌しか返せない。エイちゃんは微笑みすら浮かべ、優しく諭すような口調で言う。
「可愛くても馬鹿は駄目だ。お前、馬鹿だわ」
「ひどい!」
 溜めに溜めて何を言うかと思えばこれである。
 間髪いれず反論すれば、じとり、と横目で睨まれた。これが噂に聞く蛇睨みというやつか。その視線は私に対して抜群の効果を発揮した。さしずめ、蛇に睨まれたカエルか、鷹に睨まれたハムスターといったところ。視線だけで人を殺せそうだ。
 私の反論がお気に召さなかったらしい。エイちゃんは、ああん? とチンピラのような声をあげ、それから鼻で笑って、指折り私の罪を数え出した。
「鍵を失くして家に入れない。連絡しようとしても携帯は家。挙句の果てには、あんな寒い中薄着で長時間外にいる。おまけに自分の馬鹿さ加減を分かっちゃいない。ほら、馬鹿の数え役満だろうが。逆にどこが馬鹿じゃないか言ってみろよ」
「……ごめんなさい。私が馬鹿でした」
 今度こそ肩を落とす。エイちゃんは溜め息をついてこちらに手を伸ばし、私の前髪を掻きあげた。額に大きな手が触れる。
「寒気とかないだろうな? 熱出すんじゃねえぞ」
「……うん、大丈夫」
「食欲は?」
「ある」
 エイちゃんがわずかに眉をひそめてこちらを覗き込んでいる。
 どうやら怒っていたのも、心配ゆえのことであったらしい。
「……まあ、大丈夫か。『馬鹿は風邪ひかない』って言うし」
「エイちゃん!」


 当面の怒りはおさまったらしいエイちゃんと、緊張の糸が切れてぐったりとした私は少し遅い夕食を食べ始めた。少し冷めてしまったものの、芯の方はまだ温かいおかずを口に運ぶ。
 食後にコーヒーを入れて一息ついたところで、その話を切り出したのはエイちゃんの方だった。
「で、心当たりはないのか」
 勿論、鍵の在処のことだ。
「ポケットとかカバンの中は、何回も探したよ……」
「まあ、そうだろうな。じゃあ、道のどこかで落としたのか」
 思案をめぐらせながらエイちゃんが呟いた。だが、その考えは検討済みだ。しっかりと首を振る。
「私もそう思ったんだけど、よく考えれば落とすタイミングがないんだよね。通勤途中にカバンは開けてないから」
「電車に乗る時は?」
 エイちゃんはおそらく、定期券を取り出す時のことを言っているのだろう。私は重ねて否定する。
「その時も開けてない。定期はカバンの外ポケットに入れてるの。見て」
 部屋の隅に投げ出していた革のカバンを持ち上げて手渡す。愛用のものだ。サイズは少し大きくて、A4サイズのファイルが丁度入る程度。一番大きい口にはファスナーが付いている。持ち手は長めで、肩にかけて持ち運べるのが気に入っている。
 側面には小さなポケットが二つあり、エイちゃんがそのうちの一つから定期の入ったパスケースを見つけた。
「私がいつも鍵を入れてるのは、ファスナーの付いてる方だから。定期を出すときもそっちは開ける必要ないでしょ?」
「確かに。穴があいているわけでもなさそうだな」
 エイちゃんはカバンをひっくり返しながら、裏表をしげしげと眺める。
「うん。だから、道の途中では落としてないよ」
 自分では一通り探してみたが、冷静に考えるとそうなのだ。落とすタイミングがない以上、道端で見つかる可能性は低い。しかし、エイちゃんは渋い顔で首を捻る。
「いや……それは、鍵がきちんとカバンに入ってたという前提があればの話だろ」
「どういう意味?」
「朝の様子を思い出せ」
 エイちゃんは私の問いにすぐには答えず、カップを口元に運んだ。
「家を出るとき慌ててたよな。電車に間に合わないとか言って。そんな時に、ファスナーを開け閉めして鍵をしまう余裕があったか?」
「でも、いつもここに入れるって決めてるし……」
「お前はそんなにきっちりした性格じゃない。家に置き去りの携帯電話がいい例だ。あれだって、カバンの中に定位置があるはずなのに、気付かなかったんだろ。つまり、みちるの言う定位置は、定位置として信用できない」
 散々な言われようである。しかし、否定するのも難しい。
「ポケットに入れるほうがずっと簡単だろ?」
「あ、でも」

(後略)


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